「臨床工学技士」
高度化する医療機器を操るスペシャリストです。私がその職について3年が経ちます。

医療職だから…はじめからその道を選んでいたんでしょ?
と思われるかもしれませんが…違います。
私が臨床工学技士を目指した時
- すでに34歳
- 事務員だった(医療事務だけど意味なし)
- 国家資格はもちろん無し
- 学校にはいる必要があった
はじめから目指す学生は、18歳でその道へ進んでいます。
一歩も二歩も遅れた状態でのスタートとなりましたが、結果として大正解でした。その軌跡を記事にしていきます。
「34歳の挑戦!事務員から臨床工学技士になる」
お読みいただければ嬉しいです。
医療事務として働くも「退屈な日々」
私は大学卒業後、横浜の病院で医療事務として働いていました。
それから2年後、福岡県の健康管理センターに転勤を命じられました。関東から出るのは始めてで不安でしたが、良い経験だと思ってチャレンジします。
はじめての土地、はじめての職場。いろいろ苦労もありましたが、なんとか乗り切ることが出来ました。福岡では8年勤務することになります。
ここまで勤務して10年、私は32歳になっていました。
この期間を振り返ると…「どこか退屈」です。
大きな不満があるわけではありません。慣れた仕事で毎日が平穏、プライベートも充実している。文句のつけようがありません。
しかし、なにか満たされないのです。誰かの役にたっている、と思うこともほとんどありません。事務的に、機械的に仕事をこなし、毎日が過ぎていく。
いいようもない「将来の不安」を抱えていました。
しかし、そんな退屈な毎日に転機が訪れます。それが自分の人生を大きく変えるとは、この時は露ほどにも思っておりませんでした。
医療職の姿がかっこいい!私もなりたい!
11年前の春、配置転換がありました。これが大きな決断につながります。
その部署は健診業務課です。健診車で事業所、ホテル、大きな公共施設の集合会場に出向きます。事務作業はほとんどなく、運転業務や受付などの雑用全般をこなしておりました。
他にも雑用仕事がたくさんありました。出張のホテル手配、ルート確認、食事場所の確保など。「私はツアーコンダクターか?」と思うこともしばしば…。
どこか満足しない気持ちが一層増していきます。
それにはもう1つ理由がありました。

医療職で働く人がかっこいい!!!
チームで一緒に回っていたスタッフに憧れを抱きます。
仕事振りや、仕事内容、患者さんから感謝を言われていること。私も患者さんに直接関わりたい、次第にその思いが強くなっていきます。
その憧れはやがて「行動」へと変わっていきます。気づけば、本屋で医療職についての本を買いあさり勉強するまでに。医療の資格をとりたい思いは強く、両親にも相談するまでになりました。
しかし、そう簡単な話ではありません。
このとき34歳…チャレンジするか?現状維持をとるか?
このとき34歳です。
これを読んでいるあなたが同じくらいの年齢だったら…この複雑な心境を分かってくれると思います。
「新しい環境に飛び込むには遅い!」という方もいるでしょう。それほど悩みに悩みました。
- 仕事を辞めることになるがお金は大丈夫か?
- 勉強についていけるか?
- 学生たちの中に入ってやっていけるか?
- 安定した企業を辞めていいのか?
深く深く悩みました。しかし、結論を出すまでには時間は要しませんでした。
最後に出した答えは…チャレンジする!!!
これが人生を変えるラストチャンス。やるなら今しかない。遅いかもしれないが、遅すぎることはない。
幸いにも独身でした。身軽なので誰にも迷惑をかけません。人生後悔したくない思いから、翌日には願書を取り寄せていました。この決断は人生の大きな分岐点となりました。
臨床工学技士に決めた!
一口に医療職といっても医師、看護師、薬剤師など色々あります。その中で、私が目指したのは臨床工学技士でした。これは始めから決めていました。
チームの中に臨床工学技士がいて、その方から色々と聞いていたためです。まだ出来てそこまで年数がたっていないこと、今後はより必要になってくる職種であること。それらが選んだ理由です。
次に考えるのが「どの学校を目指すか?」です。
- 専修学校であること(3年で卒業できるため)
- 入試に社会人枠があること
- 面接のみ
この好条件を満たしていたのが、熊本県にある臨床工学技士の学校(学科)でした。
面接までにより臨床工学技士について知らないといけません。同僚の話を聞きつつ、本で毎日勉強します。
その成果もあって、何とか合格にいたりました。「34歳のチャレンジ」は第一歩を踏み出したのです。
臨床工学技師になるまで!学校生活の始まり
それから会社を退職。不安と期待が入り混じった学生生活に突入しました。
入学金、学費、教材費、必要経費は少しの蓄えと退職金で賄いました。日々の生活費は奨学金と、夕方からのスーパーでのアルバイトで何とか食い繋いでいた状況です。
勉強はとにかく大変でした。ブランクが長かったため、学生たちについていくのがやっとの状態です。
また、臨床工学技士は医学と工学の両方の知識が必要となります。もともと文系だった私には、辛かった記憶しかありません。
しかし、同級生や先生方のフォローのおかげで、何とか無事に進級。実習もこなし、国家試験も無事合格する事ができました。
一言では語り尽くせませんが…この3年間は人間的にも大きく成長でき充実したもの時間でした。
やはり、医療職の国家資格を取ることは簡単ではありませんでした。それ相応の覚悟や努力が必要という事を痛感させられました。
そして、周りとの助け合い、チームで立ち向かう大切さ、チーム医療の礎を学ばせてもらいました。
勉強の日々に…戻りたくはありませんが(笑)
かけがえのない時間であった事は間違いありません。
透析施設に就職!新資格だからこそ何とかなった!
いよいよ就職です。
私は就職先を透析施設に決めていました。臨床工学技士の7割は透析施設に勤めている現状があります。
透析施設では必要不可欠な存在が「臨床工学技士」なのです。
学校では早くから血液浄化学という分野を学びます。実習期間も長めに取るため、じっくり仕事ぶりを見ることができました。そのことから、最も就職しやすいのも透析施設なのです。
結果としては、見事就職決定!
3社受けて2社内定を頂けました。
臨床工学技士は、検査技師や放射線技師と比べて歴史が浅いです。資格保有者が少ないため、37歳の私でも内定をいただけたほどです。
そして4月から第2の人生がスタートしました。
資格を持っていても、新人は新人です。最初のうちは右も左も分からず、悪戦苦闘の日々を送っておりました。
その施設のルール、人間関係、私生活の変化。いろいろ大変でしたが、これまでには無かった仕事の充実感がありました。
「よくここまでたどり着いた」
自分自身を褒めてあげたいです。
人生流されているのではなく、主体的に生きている満足感はすさまじいものがありました。
最初は何も出来なかった業務ですが、だんだんと慣れていくにつれ、任される範囲が増えていきました。
人工透析で一番大切な事は、患者さんとの向き合い方です。症状がひどい方は、週3回×4時間の透析をしないといけません。命に関わる慢性腎不全です。
命の危険、そして終わりのない透析。人生において、大きなストレスと不安に苛まれている事と思います。
臨床工学技士は生命維持管理装置の操作、保守点検業務を生業とする仕事ですが、医療職である事には変わりありません。
患者さんを尊重し、敬意を払い、気持ちに寄り添う医療を心がけていかなければなりません。
そうでなければ、前の会社を辞めて、借金してまで、今の職業に就いた意味がありません。その事を、肝に命じて日々の仕事に当たっております。
もし、この記事を読んで、一歩でも前に進む方がいたら嬉しいです。私はこれからも、透析業務を一生の仕事とし日々邁進していきます。
また、どこかでお会いしましょう!